2003年3月 9日

笑ってやる必要

「笑ってやる必要なんてない」と書いた後で、
逆にいうと笑ってやる必要なんてあるのはどんな時だろうと考えていた。
自分は笑いをできるだけ使うべき、と思ってはいるものの、
そうでない人もいるわけで、正当化する理屈とは。

端的にいえば自分のことを笑っていいか笑って良くないかを決めるのは自分、
っていう非常に分かりやすくも当たり前なことがまずいえる。
イギリスでいうHumorというのは、ラテン語の「体液」に由来していて、
つまり、自分では変更できないのに自分自身を規定しているもの、と言え、
そこからすると、"sence of humor"っていうのは"Self consciousness"と
ほぼ同じ意味になっている、と言えるということからもわかるように、
ユーモアたっぷり、な人は自分自身を笑いに使うケースが多い。
だから、自分自身に関する不幸などを紛らわす場合などで笑いは使える。

難しいのはそれ以外のケースだ。
例えばイラクとアメリカの戦いなどを笑ってもいいんだろうか。
そして、どう笑えばいいのか。アメリカを笑えばいいのだろうか、
それとも、北朝鮮を笑うようにイラクを笑うのだろうか、
それとも、国連を笑うのか、フランスを笑うのか。それとも日本自体をか。

この場合、北朝鮮を笑い者にするような感じでイラクを笑う、
ということがほとんど国内で無い、という点に注目すべきなような気がする。
北朝鮮がネタになりやすい、というのが挙げられそうだが、
それは単純にイラクについて掘り下げられてないだけというのもある気がする。

つまり、「ネタになる」という場合、それはほぼ、2次ソースを
もとにしていることを考えれば、そのネタ元が探し当てられてない、
ということもあり得る。逆にいえば、イラクの病院で劣化ウラン弾の
影響で白血病にかかった子供、の映像は最近結構見るが、
「将軍様」に比べ北朝鮮の貧しい子供、の映像は最近見なくなった。
これは何だ?

実際見たわけではないけど、
これのザ・ニュースペーパーはどうだったんだろうか。
それ、面白いのか?そして意味はあったのか?ということを考えてしまう。
笑いに意味を求める方が無意味なのかもしれないが、
こんなところで「あるあるネタ」をやってどうする、とか思ってしまう。

んー、話が脱線した。Humorの話にもどると、
重要なのは「自分自身でさえ笑いのネタにできる」ということだと思う。
そしてどんな状況でもそれができることが望ましい。
今は北朝鮮をネタにすることができる。
が、できなくなった時が一番危険であるといえる。

何かそれが、気付かれていない、忘れられている、
興味を持たれていない場合、笑いを使うことは無条件で良いと言いたい。
ひっかかるところはあるけど、まあ、とりあえず今日はそう結論づけておきます。

以下追記:

なんとなく「笑ってやる必要なんてない」で書いた
笑いの根拠をいかに獲得するかと言う問題意識がすっぽり抜けているような。

あと、例えば、笑いのかわりに「悲しみ」「怒り」を使うのとは
どう違うか、と言う観点があった方がいいかなとか。
この場合笑いを使うメリットは、笑いが基本的には
作者の疑いから発生しているという点にあります。

つまり、「悲しみ」を使ってしまうと、そこで思考が止まってしまうのに対して、
笑いを使う場合は疑いを植え付けることができるわけです。
「怒り」「悲しみ」を使うことの効果的さと危険さは拉致報道を見るだけでも
よく分かると思います。

笑いにはステレオタイプを植え付けてしまう働きがあるかも、
と前回書いた気がしますが、それは上記の感情に比べればましかな。
笑いに対しては笑いで対抗することができるけど、
他人の「悲しみ」に対して笑いで対抗するのはエネルギーがいります。

Posted by kent at 2003年3月 9日 10:16