2000年10月22日

ナイナイサイズと普通

「ナイナイサイズ」と言う番組がちょっと面白い。私はこれまで、ナインティナインは、TVでは、スタッフの力に助けられてきたような感じで見ていて、例えば、「めちゃイケ」とかはすごく、スタッフが優秀だなあ、と思っていたのですが、この番組は、わりとそのまま、と言うか、彼らの力量だけで勝負するような感じで、それもまた、わりと面白かったのです。

あの人達の面白さって言うのは、ある意味「普通っぽさ」だと思うのですが、この番組はその辺がわりと良く出ていると思った。例えば、先週の放送だと、矢部が恋人と二人で泊まる高級旅館を探しに行く、と言うもので、「高級」の時点で、「普通」ではないのだけど、車の中でサザンをかけたりする矢部とか、宿が、ニセの雨や雷を演出する、というのをみて、「やっすい雷っすねえ〜」と言うつっこみをする辺りなど。普通の人なら宿が、サービスの一環として、雨を人工的に降らしたり、などというのを聞いて、どこかしら違和感を覚えると思うのですが、矢部はそこにつっこむことを忘れなかったわけです。「高級」の時点で「普通」ではないけれど、この辺の態度は「普通っぽい」わけです。

お笑いに限らず、表現活動は、「普通」の位置を見極めることが重要だと思います。もちろん、すごく変わった人がいて、その人はその行為を全くおかしいと思っていないのだけど、誰か、そのおかしさに着目した人がいて、その人がプロデュースする、というあり方はあるけども、自分で完結しようとすると、そうはいきません。ユーモアは、つねに一般的に見てこうだ、というものとその事象との間のずれを笑いにするわけですが、もちろん、「一般的」の位置がわからなければ、できないことです。だから、私たちが「笑える」というのは、「私」という「普通」の基準があって、その基準から、それがずれている、と判断できたから笑えるわけです。

だから、たいていの場合の笑いは、私たちが、「笑いのツボ」と呼ぶような価値観を共有しているからこそ起こりやすいものなのです。そして、その「笑いのツボ」は記憶に違いないのです。例えば、私が「変なおじさん」の真似をしたのを笑えるのは、「変なおじさん」を知っているからこそだからです。「たいていの場合の笑い」と書いたのは、そうじゃない類の笑いもあるからです。身振りのおかしさだったり、身体的おかしさだったり。

私は、ある意味、笑いの力を信じている、と言っても良いでしょう。笑う、と言う行為は全てを相対化します。既存の価値観であったり、人の生き死にや、国家という枠組みから、卑近な事象まで。現在の世界は、ほとんどの価値が相対化されて、絶対的なものなど何もない、と言う世界ですが、それが本来であって、絶対的なものは自分の意識の存在だけなのです。ユーモアを言う時に一番難しいのは、自分自身を相対化することで、これが出来てしまえば、何の苦労も知ったこっちゃない、と言った類のものですが、それも必要なことです。

話が飛んでしまいましたけれども、ナインティナインは対象層全体の平均的な「普通」の位置をすごくよくわかっていて、それが故に成功したのであり、それが分からなくなったときが、芸人生命の終わりだと言うことです。「対象層全体」と書きましたけど、昔と違って、今は、層がすごく細分化されていて、よく、「昔の芸人と比べて今の芸人は...」などと言いますが、昔と比べると、全体に対して笑いをとる、というのは非常に難しくなっていると言えるでしょう。

Posted by kent at 03:49