2003年5月16日

メディア・コントロール

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いまさらながらチョムスキー。
窪塚さんが大学では決して教えてくれないような引用をしていたので
本当にそんなこと言ってんのか?と思って予備知識ゼロで読んでみました。
しかし、この本もうまいタイミングで出したもんだ。

端的に言うと、アメリカ人がこれを読んで、
ああ、アメリカはひどいぞ、何とかしなくては、って思うのは
自然としても、日本人がこれを読んで、
そうだ、アメリカはひどいぞ、アメリカ人はアホだから、
って思うのはちょっとどころじゃなく違う気がする。

たぶん、この本でチョムスキーが問題にしてるのは、
アメリカ人はアホだからメディアのコントロールに引っかかりやすい、
ってことではなく、さらに、政府が言論統制をやっているわけでもなく、
情報の選択の結果としてそうなってしまっている、ってことで、
それに自覚的になりなさいよ、ってことだと思う。

例えば、「われわれの軍隊を支持しよう」とか言う空虚なスローガンは、
特に何も意味してないがために、賛成せざるを得ない、とか。
「アメリカの自由を守ろう」とかでも同じ。

たったいま、選挙の最中だからポストに
「あなたは、日本の共産主義化に賛成ですか?」
なんていうビラが投げ入れられてたんだけど、これなんか、
最たるもんだよね。そりゃ反対に決まってるけど、
それと共産党の候補者を選ぶのはちょっと次元が違う。
自民の候補者と共産の候補者しかいなかったら
共産の方に入れるとしたら単に左の選択肢がないからだし。

脇道にそれた。
だから、たしかに、この本自体は論旨が割とおおざっぱな感じで、
アメリカのこれがダメ、巨悪、と言っているからそのまま受け取ることもできるけど、
それはチョムスキーがアメリカ人でアメリカに住んでるからであって、
チョムスキーは日本のことも非難してるし、日本人だったら、
もっと日本の文句を言ったに違いない、と思うので、
そういう精神の方を受け取る分には、とくに文句はない、と言うか、
ほんとにそうだなあ、と思いました。

で、思ったのは、
チョムスキーは常に知識人は大衆の後を追っていると言うけども
この観点から行くと、別にweblogだからといって、
そういうマスコミのようなバイアスから
個人が逃れられるかっていったら、それは難しいよね、ってこと。

読んでみればわかるけど、文体と言い、後半のインタビューといい、
相当な偏屈ジジイ、という感じが漂ってますが、
逆に言えばそこまでしないとダメなのかも知れない、とか。

昨夜はMITで私を批判する大規模な集会が開かれた。気にはしていませんが。私を批判するために集会をしたければすればいい。ちっとも構いません。それを抑圧と呼べるでしょうか。世界中で、人々がいったいどのような現実と戦っているかに思いを巡らせたならば、「抑圧」などと口に出すのすらおこがましい。抑圧などありません。
こういう覚悟をとてももてそうにない。


量的な目の多さでそれをカバーできるだろう、
っていうのがいまのところの雰囲気だけど、
元にしている基盤が似かたよった人が集まっても大差がでないし、
なにより、一次ソースを元にしているわけではないので、
その時点で「選択」が行われてしまうことには変わらない。

ほんとうにweblogがそっちのジャーナリズム的な方向に
向かいたいんだったらそこからやんなきゃいけないんだろうけど、
多少絶望的、っていうか、そっちに行かないでいいんじゃないかなあ、
っていう感じがします。

Posted by kent at 2003年5月16日 05:08