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2007年10月21日 19:37 つっこみについて
2004年11月17日 01:06 回数のメリット
2004年9月 6日 22:36 フジテレビの27時間テレビ
2003年9月21日 03:31 笑いとA
2003年9月19日 02:06 ウケる技術
2003年8月20日 01:14 武富士とお笑いと苦情
2003年8月16日 23:12 エンタの神様
2003年7月21日 04:03 テツandトモ
2003年7月21日 01:54 ボケとつっこみ
2003年7月14日 02:18 ポストモダンツッコミ
2003年6月29日 05:10 27時間テレビ
2003年3月 9日 10:16 笑ってやる必要
2003年3月 5日 06:48 笑ってやる必要なんてない
2003年2月21日 03:22 逆に面白い
2003年2月13日 06:56 何が笑われてきたか。
2002年12月15日 04:34 オンエアバトル
2002年11月24日 00:53 タイミング
2002年11月24日 00:12 酢イカ
2002年11月 5日 03:59 タモリさん
2002年11月 3日 00:10 ダイノジ
2002年11月 1日 02:14 説明
2002年10月18日 04:12 世界2
2002年10月14日 21:08 日本人はジョークベタか。
2002年10月 7日 08:11 世界一
2002年9月 6日 02:34 座付き作家
2002年8月25日 03:07 スマイリ
2000年10月22日 03:49 ナイナイサイズと普通

2007年10月21日

つっこみについて

久しぶりにボケとかつっこみのことを考えていましたので、
少しだらだらしてしまいますが、残しておきます。

ボケとつっこみは非対称的ではないかということで、
つっこみは、お前が言うどんなことでもうまいことつっこんでやるぜ、と思っており、
ボケはそのつっこみが思いもよらないことを言おうとしているとする、
そうしてそのやりとりが成立したとき、実は、ツッコミが駆け引きに勝った
ということになるのではないか、ここに非対称性があると思ったのです。

「どんなことでも」つっこめると言う技術があるツッコミがすばらしいとするならば、
そのどんなは誰でもいいと言うことになるわけで、それに対してボケはツッコミは唯一で、
そこにボケの哀しいところがあると思いました。

たとえば、ダウンタウンの浜田が誰でもつっこめる、
と言うところまでツッコミの技術を高めていったとして、松本は、もう、
浜田にしかつっこんでもらうことができない、というところまで行くという、
そういう哀しさがあると思います。

浜田が松本を選ぶとすると、それはスポーツ的なことで、
横綱が幕下力士を相手にしないようなレベルの話でしかないので、必ずしも、
と言うことでもない。それがボケとすると、寂しいだろうなあと思います。
そうしてそれは宿命とも言えます。

一例として、
「XXって、言いたいだけ」というツッコミは浜田が流行らしたと思っているのですが、
これも、特につっこみようが無いものを、XXって言いたいだけやろ!
ってつっこんだときの、このバチっと決まった感はすごかったはずで、
どうつっこまれるか予想もしていなかったものを、言いたいだけ、と名付けられることで、
言いたいだけ、と言うボケのジャンルが生まれるわけで、その後それを意識して、
言いたいだけのボケを多用などして、その相手がつっこめたとして、
その名付けられた当初の「言いたいだけ」は、他のツッコミには処理できないはずで、
ここにそのツッコミの優位性が確定されるわけです。

要するに、そこにボケの度胸が試されるようなところがあって、
何とかつっこまれることで安堵があるわけですが、その安堵はまた、
屈服と裏表という複雑な関係性があるようなそんな感じがします。

もちろんツッコミには何が来るか分からないという怖さもあると思いますが、
つっこみには「わけわからんわ」というつっこめなかったことをボケのせいに
できてしまう最終の切り札があるので、ボケよりは余裕があります。

もちろん、ボケとの関係性においては「わけわからんわ」は負けなわけですが、
舞台の空気としては、ノーゲームになってしまう、という感じ。
そこでどのラインをアウトにしてしまうのか、打ち返すのか、
というそこのきわどさがお笑いでは重要な感じがしています。


ほかにも、ツッコミの正当性を保証するもの、と言う概念があるのではないか、
ということを少し考え始めています。
これまで、ツッコミは技術だから、コンビがキャリアを経過する内に
ツッコミがうまくなって、コンビの力関係が変化する、
と言う風に単純に思っていたのですが、その技術と言っている中に正当性の確立というか、
ポジションというのがあるんじゃないかということです。

ボケの正当性というのは特に必要なくて、ボケはつっこまれない、
と言うリスクさえ承知すればそこでボケることができるわけです。
それに対して、ツッコミはその自分がつっこむことができるという
正当性が要求されるのではないか。
そのボケよりも、それをつっこんでいる自分は正しい、と言う正当性です。
で、その正しさ、というのはある程度ポジションの中で確立されていく側面はあるのですが、
獲得していくものでもあるような感じがします。

例えば、ナイナイの矢部の正当性というのは、
「空気」というか「普通」の読み方だと思っていて、
矢部のツッコミは常に「空気」への意識だったり、「普通」との距離を意識していて、
それがぶれないというところがまさしく矢部が獲得したところであろうと思います。
たとえば、ナイナイサイズとかで、ちょっとかっこいい服を着させられた矢部の、
ちょっとかっこいい服を着させられているオレって、
というような自意識を持った立ち振る舞い、などです。

そういう空気とかと離れたところでいうと、
ダウンタウンの浜田のツッコミはジャイアン的な、というか、
そういうガキ大将的な正当性に裏付けられているわけで、
それは若いときの浜田ですらそういう側面はあったけれども、キャリアを経るにつれ、
それが実を伴ってきているので、その位置が確固たるものになっているという感じです。
また、「オレって」という自嘲の感じがなかったとしても、
松本を筆頭とした周囲がそれをつっこめるというような意外な風通しの良さも一役買っています。

爆笑問題の田中はと言うとその中間くらいで、前者の「オレって」感を持ちつつ、
太田というツッコミをもっているというポジションですね。

で、いいともをずっと見ていて思うのですが、
キンコン西野が司会とかやるために足らないのは、
この「オレって」というかんじのような気がします。
いいともとかでタモリさんにつっこまれた西野は本気で不本意だというような
かえしをするので、そこら辺が若気の至りかなという感じがしてしまいます。
それをタモリさんや鶴瓶とかは見ていておもしろいだろうなと思います。

Posted by kent at 19:37

2004年11月17日

回数のメリット

いつの間にか梨の季節が終わっていたことにがっくりす。

エンタの神様の文句ばかり言ってる感じですが、メリットもないわけではなくて、
毎週毎週ネタをやれると言うことはその分チャレンジも出来るということで、
年にいっぺんしかテレビでネタをやれる機会がないとすれば、漫才じゃなくて、
ギター侍みたいな「定番」が出来てしまっている形式でネタをやるひとは
その定番を変えるチャンスがずっとないわけで、
毎週やるということはその定番をあえて崩すことも出来るし、
崩して失敗しても、修正が効くということでもあります。

具体的にいうと、いつもここからが
新ネタをちゃんとやっていけるのはエンタのメリットなのかもしれません。
ドメインが「スケッチブックネタ」から「あるあるネタ」に広がりましたよね。
はなわもそうなのかもしれない。

そう考えるとエンタが無事なうちにギター侍は
方向転換をしなくてはならないのだけど、
今頃になって他局に出だして投資を回収しているから、
当面はブームに乗るしかないわけで、その時期の見極めでマネージャの腕が
問われますでしょうか。

Posted by kent at 01:06

2004年9月 6日

フジテレビの27時間テレビ

http://www.1101.com/miyake_tsuchiya/
いいから読んで下さい。

(9/14 追記しました。)

明日まで夏休みなので、
録画しておいたフジテレビの27時間テレビを朝まで見て寝たんですが、
最初のうちはどうせ録画だし、朝6時ぐらいになると本当に今、
生でやってるんじゃないか、と言う気分に陥ります。
CM飛ばさなくなってくるし。

今日見たのは朝6時くらいまでの分ですが、
二度目ですがやはり、「恋の大かま騒ぎ」はすごかったです。
本当に日テレの24時間テレビの深夜を担当したディレクターはじっくり見て欲しいです。
普通の会社で考えればわかることだと思うのですが、何かしらの仕事をするとき、
入社1年目だけ100人集めたってできる仕事はたかがしれているのに対し、
入社10年目が10人集まったら結構な仕事ができるわけです。

そういう当たり前の結果がちゃんと出てるなあ、と思いました。
あまりにスムーズにパスがつながってるように見えるから、
なんだ簡単なんじゃん、と思ってしまいがちなんですけどね。

そういうことを考えると、若手芸人の力を最大限生かすにはきっちり枠を作ってあげて、
その枠の中では自由にやっていいよ、と言うやり方なのかな、と思いました。
だからそういう意味では「エンタの神様」を認めなければいけないのかもしれないけど、
その枠が今後に生きてくるような枠設定とは到底思えないから、
あれに出てくる芸人さんは単純にあのまま消費されちゃって終わるだけのような、
そういう感じがしちゃうんだと思いました。
ギター侍が10年後いるわけないでしょう?

フジテレビの伝統的なお笑いキャリアパスであるところの、
深夜の集団コント番組->ゴールデン特番->ゴールデンレギュラー
というのはその意味でやはり非常に考えられていて、
ちゃんとつながっていく感じがするんです。
もちろん、そういうふうにキャリアパスが硬直するのの
アンチテーゼ的な意味合いもネタ番組にはあるわけだから、
それは否定しないけれど、ネタ一本で食っていく、というのは
相当なことだと思います。ちゃんとネタを極めたら、
違うパスにexitできるような、そういう仕組みがないと成り立たない気がする。

でも、それをテレビ局が面倒を見る、というのは、
会社が社員のキャリアパスを決めて支援する、と言う今時流行らない、
そんな感じにも見えるから、各芸人の自主判断を
テレビ局が支援する、と言う形になるんでしょうが、
力関係的に普通の会社みたいには行かないんだから、
その辺は多少は考えて欲しい。少なくともマネージャぐらいは
考えているんでしょうけど。たぶん。
ある程度行けば「地方回り」という手も使えるはずだし。
でも、それを望んで「ネタ一本で」って言ってるのかしら?

また、「ネタ」の方がああいう「大かま騒ぎ」よりも高尚だと思ってる人が
多いと思うのですが、ある面では確かにそうだけれども、
生放送の「大かま騒ぎ」を成立させるためのスタッフの努力やら、
出てくる芸人の経験、不幸の総量、などを考えると、
私は「大かま騒ぎ」のほうがある面で高級なんじゃないか、
と思ってしまいます。スポーツをアドリブだから低級だ、と言う人はいないでしょう。


休みになるとまだちゃんとこういうことを考えられることに多少ほっとしました。

--
追記(2004.9.14)

キャリアパスとかそんなサラリーマンみたいなこと、
芸人に当てはめるな、と思われるかもしれませんが、
キャリアパスって言うのはエスカレーターじゃなくて、
その都度のごとの目標くらいの意味合いと考えてください。

つまり、集合コント番組->看板番組
みたいなわかりやすいステップがあった方が、
それに集中できるはずで、エンタみたいにどんづまりだと、
その次のステップというのが見えにくくなってしまい、
そこから先に行くことが難しくなってしまうと言うのが懸念点です。
青木さやかとか長井秀和とか、ドランクドラゴンが出るのは、
ぜんぜんオッケーなんですが、エンタが全部になっている人は
本当にこの先キツいなあ、と思います。

うまくたとえられないけど、それって、
特に目標もないのにコンビニのバイトだけ延々続けるような
もののような気がしています。
コンビニのバイトって基本的にそれを目的にやるものじゃないですよね。
もちろん、コンビニのバイトしか仕事がない、とか、
コンビニのバイトだって忙しい、とか一生懸命やってる、とか、
そういうのは当然だけど、コンビニのバイトから、
次のステップって、特にないですよね。強いて言えば、
店長とかはあるかもしれないけど、まずない感じ。
接客、と言う観点では生かせるだろうけど、
それってコンビニとは関係ないキャリアだろうし、という感じ。
コンビニの接客ができたからといって、
フランス料理屋の接客ができるかっていったら、
あんまり関係ないですよね、という感じ。

日テレの24時間テレビで100人の若手がひな壇に並んだのを見たとき、
そういうことを考えてしまって、ああ、大変だなあ、と思った次第です。
これって、バイトでもいいからとにかく働け、って言うのと、
いや、フリーターになんかなるな、正社員になれ、
っていうのの違いにも似て悩ましいですね。

Posted by kent at 22:36

2003年11月15日

[告知]お笑いサークルMiDE上映会(+若手お笑い芸人界について)

ものすごく局地的な告知をします。

このあと1時間後、17:30分から中野studio twlで行われる
「ガクリタ2〜日米学生芸人選手権〜」に
お笑い系サークルMiDEという
グループが参加します。と言うか上映なので本人たちは来ません。
私が学生時代に作ったものも流れます。

中野近辺にお住みの方、たまたま近くを通りがかった方はふるってご参加ください。
そして苦笑いなどをしていただけれると幸いです。
当日券1000円です。

(感想は以下)

行ってきました。
MiDE的には結構ウケたので良かったと思いました。

でも、いろいろ考えさせられました。
いちおうゲスト参加ではあるものの、参加していることには
変わりないので、あんまり書くのは主催の方に申し訳ないので、
ものすごく一般的に書きます。

私はルミネtheよしもとなどにいってもピクリとも笑わないこともあるのですが、
いま東京で芸人としてのキャリアを歩み始めた方は、
とりあえずルミネを一つのハードルとして考えると思うのです。

で、ルミネにでるようになると多分、オンエアバトルを
目指すと思うのですが、もちろんすぐにオンエアされるわけもなく、
オンエアを目指すようになるでしょう。

ここでさらに思うのは、オンエアされたからと言って、
ピクリとも笑わないこともあると言うことです。
さらに言えば、すごい常連で、しょっちゅうオンエアされているからと言って、
さらにそこそこ面白いからと言って売れる気は全くしないと言うことです。
ズバリ言うとアンジャッシュがそうです。

つまり、中野辺りの小劇場でキャリアを重ねて、
ルミネの若手芸人十把一絡げみたいなイベントに参加して認められて、
オンエアバトルやエンタの神様にでるようになって、
DVDが発売されて、まで行ったとしてもそこに大きなガラスの天井があり
そこから上がるのは容易ではない、と言うか、
事務所の力、ポジションがあいている、良い構成作家とめぐり会う、
などの条件を満たすことも必要になってきます。

特にポジションが大きい気がします。
新しいポジションは空くのを待つか作るしかないわけで、
ほとんどの「売れた」芸人はポジションを作った芸人の方が
多いと思います。ここで言うポジションは「ビジネスモデル」
と言っても良いと思います。

テレビに出ない芸人、と言うポジションはまあ、良いと思うのですが、
それが成り立つにはそれで食えるシステムが必要になってきます。

ラーメンズが何で食ってるのかは知りませんが、
多分、システムとしてはラーメンズは成り立ってるので、
ライブやDVDだけでも成り立つのでしょうが、
ラーメンズがオンエアバトルにでていたと言うことも忘れては
いけない事実です。

この辺は考えさせられる問題です。
あと、もう一つ思ったのは、小劇場レベルの芸人、を
見に来る客の存在です。何で見に来るんでしょうか。

たしかに1000円ぐらいで2時間ぐらいやるので、
デフレ感覚なんですが、それだけで見に来てるとも思えません。
2時間千円だったらマトリックスは1500円なんで、
そっちの方がかかってる値段的にはお得な気がしますし。

以前、鳥肌実のライブを見に行った際に
「XXも売れてからつまんなくなったから鳥肌もつまんなくなるかな」
とか言ってる人がいたんですが、
初物買いみたいな感じで見てるんでしょうか。
売れるまでのパトロンというか。
この辺は路上シンガーのファンと同じ心境のはずです。

(売れてからつまんなくなった、ゴールデンに言ってからつまんなくなった、
というのはよく言う言説ですが、私は多分、
「売れたから」というよりかはネタ切れの場合の方が多いと思います。
トリビアはゴールデンの方が無駄なお金を使ってて面白いと思います。)

あと、友人関係で来ている、というのは多分多いと思います。
友人からはじめてどんどん輪を広げていく感じで、
これはわかりやすいのですが、小劇場特有の
内輪ウケっぽい感じがしてしまうのも難しいところです。
ルミネですらそういう時があります。

内輪ウケはお笑いでは重要なテクなのですが、
テレビならまだしも、小劇場レベルでは難しいところです。
どこまでが「内輪」なのかという判断がきわどいからです。

特に合同ライブではそれぞれの芸人の客が来るわけで、
なおさらそうです。合同にしているからには
自分の客以外にも笑いを広げることが重要でしょうけど、
ウケなかったりすると内輪に頼ってしまうことも多々あります。
でもこれは諸刃の剣です。

たとえば、インターネットを使ってこれを何とかすることも
もしかしたらできるのかもしれませんが、
ライブネタはストリーミングで見ても面白くない、と言うか、
要求される笑いのレベルがかなり高くなるので、
直接映像を流す手法は出たての芸人、特に客いじりに頼る場合
には厳しいでしょうし、コミュニティとしての利用も、
内輪ウケ問題が発生するので結局かわんないかもしれません。
ただ、告知メディアとしては使いでがあります。

まとまりがなくなるついでに思ったのは、つっこみの扱いです。
つっこみが「おもろないやつ」として扱われていたのが
気になりました。これはテレビに出る芸人でも、そうな気がします。
ダウンタウンレベルになってやっとつっこみも評価されるという。

実はつっこみも重要だという認識を持っていただきたいです。
ネプチューンがボキャブラバブルから逃れられたのは、
事務所のおかげかもしれませんが、名倉のがんばりもあると思っているのです。
あといまの「ガキの使い」がまだ見ていられるのは
かなり浜田の貢献が大きいと思います。

これは関東ならではの要因かもしれないと思うのですが、
関東は基本的にボケ重視でつっこみを待たずに笑う場合が多いため、
つっこみは別にいらないと思われているのかもしれません。
おぎやはぎが関西でウケが悪いのはそれが原因だと思うのです。

まとまらないんですが、
若手芸人界とそれを取り巻く客、は本当に気になっています。
もし私が大学院生なら是非フィールドワークしたいところです。
ぜひ誰かにやってもらいたいです。そして新書サイズにまとめてください。

Posted by kent at 16:30

2003年11月 3日

ココリコ「優しさカーディガン」

03-11-03_02-00.jpg

これは多少がっかり感がありました。
というのも5年前ぐらいにテレビで何度かココリコの
コントを見て、結構面白かった印象があったので、
今回DVDが出ると聞いて期待してしまったから。

何が原因なんだろ。
いちばん5年前と違うのが田中がボケで遠藤がつっこみ、
と言う枠組みが曖昧になっちゃった、っていうか、
遠藤が力をつけてきてて、コンビの力関係が変わった感じ、かしら。

5年前はわりと遠藤のつっこみはさっぱりした感じだった、
というかはっきり言って下手だったんだけど、
今回のは割とつっこみに自信がついてきた感じというか、
逆にちょっとつっこみすぎのきらいがあるかなと。
それに対して田中のボケも進化しているかと言えば、
それは逆にパワーダウンしている感じというか。

5年前のは田中が本当に気持ち悪くて、それがとてもよかったんだけど、
今回のはそれよりも遠藤がボケに回るコントでの遠藤の方が気持ち悪くて、
それがいちばん良かった気すらする。
5年前にも見たことある田中が一人何役もやるネタは面白かったです。

しかし何でこのタイミングなのかしら。
ココリコ的なタイミングとしては3,4年前ぐらいに出すのが
たぶん良かったんだと思うけど、市場的にはそうでもなかったかもね。

Posted by kent at 02:17

インパルスおちゃらけソーセージとロバートライブ楽しもうゼ!

03-11-03_01-06.jpg 03-11-03_01-08.jpg

2本まとめて。
二組とも「はねるのトびら」が有名で、しかも人気があるから
この若さでDVDが出ることになったんだと思われる。

でもなんというか、はねるのトびらでのこの二組、
というか、ロバートの秋山とインパルスの板倉はとっても
はじけてて、というか、気持ち悪くて、はねるのトびらが
よくある若手コント番組からは頭一つ飛び出せてるのは、
この二人とドランクドラゴンの塚地のおかげだというのは、
別に私がいまさら取り立てて言うほどのことじゃない。
(+北陽の虻川という人もいそうですが、虻川はそこまで気持ち悪くない、
というか、上の三人が役の気持ち悪さで笑いをとってるのに対して、
虻川はどちらかと言えば素で笑いをとる感じというか)

でも、このDVDの二組はそんなでもない。
はっきりいうと、DVDを出すのはまだ早かったって感じがする。
DVDになっちゃうのは本当に危険で、ライブと違って
後世に残ってしまう以上、こんな恐ろしいことはないと言うか。
よっぽどタイミングを見ないとダメだと思う。

たしかにいまがいちばん良いという判断をしてもおかしくはないんだけど、
たぶん、会場で見たら面白かったのかもしれないけど、
ビデオにしたらそうでもなくなる、というのは当然あることで、
ここがお笑いの恐ろしいところかなと思います。
たぶんいまボキャブラバブルの頃のビデオ見たらひどいと思うんだよね。

どちらかと言えば、インパルスの方は期待通りかなって感じです。
がっかり感が強かったのはロバートの方かしら。
まあ、期待度の差もあるんですが。
ロバートの秋山は普通さの延長線上にある気持ち悪い感じを
演じさせたらピカイチだと思うんですが、
このDVDの秋山はそんなに気持ち悪くなかったです。
最初の中学生役はかなり気持ち悪くてとても良かったんですが、
あとは割と普通というか、はねるのトびらとかでやってる
気持ち悪い役よりは弱い感じというか。
というか、オンエアバトルで一回見た時はもっと面白かったので、
なおさらがっかりというか。

Posted by kent at 01:48

2003年10月 6日

ローワン・アトキンソン・インタビュー。

昨日(日曜)の読売新聞でMr.ビーンの人のインタビューが載ってた。
Mrビーンはちっとも面白いと思えなかった派ですが、
インタビューはちょっと面白かった。

「冗談のネタにすることは、必ずしも反逆や軽蔑を意味しない」
「英国人は、君主に対し、尊敬すると同時に下品な冗談のネタにすることにもできる。」
「いちばんギャグの対象にしやすい人種は他人を喜ばせようなどとは考えない人種だ。政治家は他人のご機嫌をとる必要がある。政治家とコメディーは相性がよくない」
政治家とコメディーは相性がよくない、かー。
日本の政治家はご機嫌とるかね。
すぐポピュリズムとかいうからしない気もするし、
ご機嫌をとりすぎて公共事業やりまくりなのか。
でも確かに日本で政治風刺はあんまりないね。
「笑う犬」で少しやってて、日曜八時で偉いなあとか思ったけど。

あと、作品が王室を風刺していることに関しての記者の注釈:

「この作品は今春、英国で大ヒットした。その際も「ギャグが古くさい」との批判はあったが不謹慎との声はなかった。英国はチャールズ皇太子が股間を押さえている写真を絵はがきにするお国柄だ」
お国柄。

それにしてもその「ギャグが古くさい」と呼ばれる作品を
王監督便器騒動でそのギャグの古さが周知されるようになった
ドンドコドンの山口が吹き替えをする、と言うあたりに皮肉を感じます。

Posted by kent at 01:58

2003年9月21日

笑いとA

「A」という映画というかドキュメンタリーを見たんですが、
何か途中でもういいよって感じになっちゃった。見たけど。
や、面白いんだけど。

ほら、これを流せないテレビはやっぱだめでしょ、て言うのはちょっと違うかんじ。
それを言うならそういうweblogみたいなのもたぶん無いんだよね。
別にテレビで流す必要はないというか。深夜3時ぐらいに流れるのがいいんだろうけど。
こうしてビデオにもなっただけでも幸いというか。
CNNにアルジャジーラの役割を期待しないでしょ、っていうか。

まあ、それはいいとして、
これを見て彼らの方をまともだと思えるのは、やっぱり笑いのおかげだろうと思う。
フツーに些細な出来事で笑ったりする姿が映ってるから。
どのポイントで笑うのか、というのは相手の理解にとって重要かと。
テレビで映るのは「解脱というのはですね」「撮らないで!」とか
そういう部分だけだし、そういう部分だけ編集してるのだろうけど。
この映画で逆側がむしろオウム的に見えるのは、
こっちはこっちでそれを撮ってないからだと思った。

そう考えると、「こっちが真実で、正しい」っていう風にはならなくて、
どっちもどっちですよって言える状態を保つことが重要であって、
監督の意図もたぶんそっちかしら。
でもそれこそ「解脱」だろうな。

それとはあんまり関係ないけど、
地震が話題になってたけど、
なんなんだろうなあ。

小学校の時とかにクラスの中で地震がいついつに来る、
とかで話題になってそのときはたいそう怖かった経験があるけど。
もうどうだっていいというか、今日あった地震の時も、
地震だと思いつつも布団から出なかったけど。

情報の流れがどうなってるのか、よくわかんないけど、
これがネットで広まった噂(元は八ヶ岳天文台だけど)だとして、
普段見るようなwebサイトの作者とかが、
缶詰を買いました、とか書いていて、ええー、それ信じちゃうのー?
って思ったよ。

んー、これの発祥が週刊朝日の方だったら、
(ネット→テレビ、週刊朝日→ネットっていうフィードバックはあるか)
信じなかったのではないかと思うのだよね。

何か、誰に聞いてもいちおう建前では
「ネットでの情報は各自判断して信用するか決める」
「嘘は嘘であると見破れない人は...」
っていうことになってるだろうけど、
実際を考えるとネットの方をより信用するようになって
きているのかしら。

webサイトで3つぐらい同じ言説が書いてあったら
テレビより信用しちゃうのかもね。
そんだけマスコミが信用されてないわけだよね。
何て書いたら月並みだけど。
通ってる目の数より個人の直観というか、
業界組織のゆがみみたいなのをより重視しているのかしら。

でもなんか怖いなー、これ。
怖いっつってもどうにかなるもんじゃない流れだけど。
それとも単に話題だからってことでとりあえずweblogに
缶詰買いましたって書いただけかも。
それならいいけどね。

Posted by kent at 03:31

2003年9月19日

ウケる技術

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757301782/

けっこう前に買っておきながらも、紙袋に入れたまま
放っておいたんだけど、Beltorchiccaで取り上げられてて、思い出した。

なんで買ったかっていうと、お笑いの教科書を書くとしたら
どんな風になるのかを考えていて、まさしくこれは、
そのつもりで書かれたのだと思ったから。

あと、これ自体がちょっと面白い。
「ダジャレ練習帳」と言う名著がありましたが、
そんな感覚かしら。本気で書いたバカ本というか。
体裁的にはビジネス・自己啓発書っぽい。

ここに挙げられているものは佐藤雅彦的に言うところの、
「ルール」であって要素還元的手法であって、
確かにすぐ応用できる、という点では参考書としては正しい。

ただ、お笑いの教科書として考えるとその点が甘すぎる感じ。
例えばここに出てくる「フェイクツッコミ」が笑えるとして、
それがなんでなのかはわかんないから、
それ以上応用のしようがない。
そこをすっ飛ばしているが故にわかりやすいんだけど。

だけど、よくある批判のように「フェイクツッコミ」が面白い、と言うことで、
誰しも「フェイクツッコミ」をするようになったら、
「フェイクツッコミ」は成り立たなくなる、かと言ったら、
そうでもない。「三村ツッコミ」みたいな感じで別の生命力を
与えられる方向性もあるわけで。

だからこそ、ここに載っている「技術」のライフサイクルまで
踏みこむと教科書的に正しいのかもしれないけど、
そこまでまじめに読む本じゃねえや。これ。


「コミュニケーションはサービスである」っていうのは、へー、って感じ。
この本はその観点で書かれてるから「ツッコミ」の定義が
「相手のおもしろさに気づいて拾う」なんだよね。
この定義は逆に新鮮。

以前「いろもん2」でツッコミ論の話になって、
今田耕司が「おかしなことを言ったのを軌道修正する」
鶴瓶が「本人が満足するぐらいしゃべった後でさらにその笑いをのばす」
仁鶴が「お客さんの気持ちイコールを言う。相手をつぶす方向でなくのばす方向」
と三者三様というか笑福亭流はまあ一緒か。
笑福亭流がまさに上の定義なので、あながち新しくもないのか。
ツッコミはwin-winの関係で!などというとコンサル会社っぽいですか。

Posted by kent at 02:06

2003年8月20日

武富士とお笑いと苦情

今更だけど、武富士のCM。
あたし配る!あたし踊る!
ってどっちも本体業務と関係ないのがいいよな。
あたし査定する!あたし取り立てる!
とかじゃあれだもんな。

それとは関係ないけど、
お笑い番組で王監督を馬鹿にしたら苦情が来て云々、
とか言う話、それ自体の是非はともかくとして、
やる以上は謝っちゃダメだよな。
またいっそうお笑い活動がやりづらくなってしまうよ。
お笑い番組なんだからバカにして何が悪いって開き直ってよ。
頼むからさ。

そういえば、アメリカで人気の番組で、
日本のバラエティー番組のパロディみたいなので、
タレントが何かに挑戦みたいなの、で、
芸者とかがアシスタントで出てくるとかで、
日本人が差別的に描かれてる、とかで、
日系人だかアジア人関係の団体から苦情が来たとか
そんなのが新聞に出てたけど、おもしろかったのは、
元々この番組はイギリスの番組で、
そのときは大人気で全く苦情が来なかった、
というあたり。なるほどイギリス人。

Posted by kent at 01:14

2003年8月16日

エンタの神様

本当にエンタの神様は芸人殺しだな。
オチや前フリが太字になったりする、バカにしたようなテロップの入れ方といい。
途中で切れたり白石美帆ばかり映る雑な編集といい。
まあ、よくも悪くも日テレって言う感じがします。

芸人の選び方とかは悪くないとは思うんですけどね。
あと、出てくる芸人はわりとがんばってるんだけど。
まあ、使い方がよくも悪くも日テレなんだよね。

ちょっと前まで深夜にやってた「笑いの巨人」も
出演者とかだけ見ればすごい面白そうなのに
全然面白くなかった。日テレマジックですね。

一人の芸人が作れるネタの数なんてたかが知れてるので、
ああいう感じで消費されてしまうと本当に芸人生命を縮めてしまいますね。
かといって日テレのいい時間の番組ということで
ステップアップに出たい芸人は多いだろうし。
困ったもんだ。

テレビで見て面白いからっつってルミネとかに見にいって
同じネタやったらホントがっかりだもんね。
かといってどうしようもないし。
本当のファンだったら同じネタでもいいんだろうけど。

テレビでネタ番組って言うのはちょっと合わないような感じはする。
見てる側としてはお手軽でいいんですけどね。
ビデオでまとめてみるとちっとも面白くなかったりするし。
テレビはテレビでもっと他の方法があると思うのだけど。

ていうか、最初からあんな感じだったっけか。最初は何かもっと
広い意味でエンターテイメントだったとおもうのだけど、
めっきりお笑い芸人の番組になってる。
と言うことは多分、それを求めてる人が多いってことなんだろうな。
日テレだからね。毎分視聴率とかできっちりチェックしてそう。
さすが総合演出がマジカル頭脳パワーの人なだけあるよ。


--
追記:

テレビでやった同じネタを舞台で見たらがっかり、
と、書いたのですが、よくよく考えてみると、
一人の芸人が作れるネタの量に限りがある以上、
本当におもしろいネタというのは一人の芸人が
一生かかってもひとつか二つとも言えるわけで、
一概にネタというのはそういう見方をするんじゃなくて、
落語みたいに日によって感じが違う、とか、
同じ噺でも人によって違うとか、そういうものなのかもしれない。
だったらなおさらそのネタをエンタの神様でやってしまうことはない、
とは思いますが。

ただ、ネタにもよると思っていて、
うまくアドリブを混ぜたり、観客の反応をよくよんでやったり、
そういうことができるコンビならいいんですが、
ライブなどで同じネタをやりすぎてボケにつっこみがかぶり気味で
いかんともしがたい、とか言うのも多々あるわけで、
むしろそればっかりな気もするわけで、
上記のようなかき方をした次第です。

んー、こりゃ難しいなあ。
似たようなことを長く書いたので、
それも併せてどうぞ。

Posted by kent at 23:12

2003年7月21日

テツandトモ

tt.jpg
テツばかり注目されがちだが、実はトモの顔も結構すごい。

Posted by kent at 04:03

ボケとつっこみ

人と話していて、ああこの人はボケとつっこみ、ということを
よくわかっているなあ、と言う人に出会うことは少ない。
さらに言うと、そのよくわかってない人に説明するのは意外と難しいような感じがする。

たとえば、「Aだね」「なんでAやねん!」
と言うようなやりとりをボケとつっこみの例として
紹介することは出来るものの、これは別にボケとつっこみ自体の
説明になっていない気がする。


これはたぶん、変な例で言うとSMに近いのではないかとか思った。
SMの例として「女王様とお呼び!」「女王様〜」というのを出すと、
なんだかなあって言う感じになるだろう(いや、わかんないけど)。
どこで聴いたのかは忘れたけど、別にSとMというのは
どっちが先という概念を表してなくて、先に声を発した方から始まる(らしい)
という一筋縄ではいかない辺りも似ている。

しかし、何より似ているのはこれが「ごっこ」であるという点である。
そしてごっこだからこそちゃんとやらなければいけない、と言う点も。
だからボケとつっこみをよくわかってる人はちゃんとボケるし、ちゃんとつっこむ。
ちゃんとって言うのはわざとらしく、と言う意味じゃない、
ちゃんとつっこむにはそれが形式になってはいけないわけで、
とっても臨機応変なつっこみになってしかるべき訳だ。

だから、特にお笑いに詳しくない人にボケとつっこみを教えると、
やっぱり表面的な浅いボケとつっこみになってしまうのも無理はない。
やっぱり演じ切れてない感じが残ってしまう。
知り合いの関西の人が4月に東京に来てからずっとなじめないと
言っていたけど、そんなことも原因の一つかな、とか思った。
幼少の頃から刷り込まれた民族と思春期以降の学習では
やはり差が出てしまうのもむべなるかなと言う話です。

Posted by kent at 01:54

2003年7月14日

ポストモダンツッコミ

漫才で言う「ツッコミ」の役割はいま明らかに変わってる感じがして、
55号→紳助竜介・ツービートあたりの「弱いツッコミ」を経て
ダウンタウン・ウッチャンナンチャンの対等な感じに戻って、
今のツッコミって言うのはどれが代表格って言うのは
いいづらいかんじですけど、ある種の特徴を持ってる気がします。

最近のコンビはまず、明らかにノリツッコミが多いです。
あと、ツッコミ損ないだったり、ツッコミ返し、つっこめてない、
などのテク(わざとなんで)を使う場合も多いように思います。
一番わかりやすいのは「三村ツッコミ」ですが、
その下の世代のますだおかだなど、その辺の漫才コンビになると
ほとんどがそうと言ってもいいと思います。
こういうツッコミをポストモダンツッコミと言います。

こういうツッコミのパターンとしては、
ボケがぼける→ツッコミがそれに乗っかる→乗っかりすぎる
→冷静なボケがつっこむ→それに対してつっこむ(「こっちもがんばっとんねん!」とか)
が王道ですが、ほかにも、漫才の途中で違う場面の演技をする際に
くるっと一回転して入る、と言うのがよくありますが、
ツッコミがその演技に入ってもボケがついてこないで、
「何急に回ってんねん」「古い入り方やなあ」などと冷静につっこむ、などもあります。
共通してるのは、漫才と言う形式自体を笑いにしている点です。

ツッコミというのは本来、観客を代弁する絶対的な正しい視点を持っていて、
その位置からボケに注意する、と言う立場だったわけですが、
もはや絶対的な正しい視点というのがあり得ない幻想な以上、
そういうツッコミになるのも無理はないのが実際で、

そういう傾向に、80年代の「弱いツッコミ」からの流れ、
つまり、ツッコミという裸の権力者に対する「王様は裸」的な
ボケの弱さに対する下向きの優越感に対する、
上向きの優越感が合わさっていると考えられます。

「考えられます」って言ってもちょっとあれなんだけど。
そうすると「笑い飯」みたいにボケとかつっこみとか関係ない方向
に行くのは当然かなあとか思うけど、あれはなんか、
役割としてのボケツッコミの区分がないだけで、結局つっこんじゃってるから、
どうなんだろう。どうせなら今後はツッコミレスになるんじゃないかなあ、
とかおもうのですが。

Posted by kent at 02:18

2003年6月29日

27時間テレビ

フジテレビの27時間テレビは毎年見てるんですけど、
ここんとこ、不況の影響か、ちょいと微妙。

この手の番組の一番の持ち味はすべて生放送だ、
ということにあると思うのだけど、ドラマだとかVTRだとか、
そういうハプニングが起こりようのないものを目玉にするのは
全く無意味というか。漫才とかも生でも脚本通りだから同じ。

だから、27hでは構成的にハプニングが起こるようにすべきだと思うのだけど、
時間とか内容が読めなくなる方がイヤなんだろうな。
「生」らしさが出るようになってるのがさんまと中居のコーナー、
っていうのも、あの二人なら生で大丈夫だろう、っていう安全策だし。

まあ、それでもこれだけ長い間生放送をするといろいろあるわけで、
鶴瓶が局部を露出したり、モー娘。の人が漫才にちっとも笑ってなかったり、
などがカメラに映ってしまうというだけでもう十分なんですけどね。

そういえば、あのココリコが着てるみたいな
ザ・漫才師というような青いジャケットほしいんだけど、
どこで売ってるのだろう。着る機会はないけど。
誰に聞いても「ハンズにあるんじゃない?」などと言います。

Posted by kent at 05:10

2003年5月19日

さまぁーずの悲しいダジャレ

03-05-18_21-16.jpg

さまぁーずってわりと好きです。ていうか大竹が好きです。
今週末に給料が出たらDVDBOXを買ってしまうおそれがあります。

で、この本は大竹の得意技の悲しいダジャレをまとめたもの。
「花に話しかけた。...オレ、今仕事ないよって..。」
「箱を運ぶ、みたいな仕事なんですけど職業欄になんて書けばいいんですかねえ」
という。やーいいっすねえ。

これのいいところはダジャレの持つ弱点を克服しているところです。
たとえば「ふとんがふっとんだ」などというオヤジダジャレや、
「六本人、生まれる」などと言う代理店のくだらないダジャレは、
つっこみができないのでどうとっていいかわからない、
と言う致命的な欠点がありますが、

これの場合「悲しさ」につっこめる、と言う点で
コミュニケーションの余地を残しているのがすばらしいです。
実際そう本の中で言及されているのもえらい点です。
ただ、本の形式が右側にダジャレ、左側につっこみ、
なんですけど、三村ツッコミはタイミングが命なので、
紙にされても笑えないです。

それだったら右側にダジャレ、左側に悲しい部分、の方が
いいのかも知れないけど、うまく分かれている物ばかりではないので、
しょうがないのかしら。

Posted by kent at 01:13

2003年3月 9日

笑ってやる必要

「笑ってやる必要なんてない」と書いた後で、
逆にいうと笑ってやる必要なんてあるのはどんな時だろうと考えていた。
自分は笑いをできるだけ使うべき、と思ってはいるものの、
そうでない人もいるわけで、正当化する理屈とは。

端的にいえば自分のことを笑っていいか笑って良くないかを決めるのは自分、
っていう非常に分かりやすくも当たり前なことがまずいえる。
イギリスでいうHumorというのは、ラテン語の「体液」に由来していて、
つまり、自分では変更できないのに自分自身を規定しているもの、と言え、
そこからすると、"sence of humor"っていうのは"Self consciousness"と
ほぼ同じ意味になっている、と言えるということからもわかるように、
ユーモアたっぷり、な人は自分自身を笑いに使うケースが多い。
だから、自分自身に関する不幸などを紛らわす場合などで笑いは使える。

難しいのはそれ以外のケースだ。
例えばイラクとアメリカの戦いなどを笑ってもいいんだろうか。
そして、どう笑えばいいのか。アメリカを笑えばいいのだろうか、
それとも、北朝鮮を笑うようにイラクを笑うのだろうか、
それとも、国連を笑うのか、フランスを笑うのか。それとも日本自体をか。

この場合、北朝鮮を笑い者にするような感じでイラクを笑う、
ということがほとんど国内で無い、という点に注目すべきなような気がする。
北朝鮮がネタになりやすい、というのが挙げられそうだが、
それは単純にイラクについて掘り下げられてないだけというのもある気がする。

つまり、「ネタになる」という場合、それはほぼ、2次ソースを
もとにしていることを考えれば、そのネタ元が探し当てられてない、
ということもあり得る。逆にいえば、イラクの病院で劣化ウラン弾の
影響で白血病にかかった子供、の映像は最近結構見るが、
「将軍様」に比べ北朝鮮の貧しい子供、の映像は最近見なくなった。
これは何だ?

実際見たわけではないけど、
これのザ・ニュースペーパーはどうだったんだろうか。
それ、面白いのか?そして意味はあったのか?ということを考えてしまう。
笑いに意味を求める方が無意味なのかもしれないが、
こんなところで「あるあるネタ」をやってどうする、とか思ってしまう。

んー、話が脱線した。Humorの話にもどると、
重要なのは「自分自身でさえ笑いのネタにできる」ということだと思う。
そしてどんな状況でもそれができることが望ましい。
今は北朝鮮をネタにすることができる。
が、できなくなった時が一番危険であるといえる。

何かそれが、気付かれていない、忘れられている、
興味を持たれていない場合、笑いを使うことは無条件で良いと言いたい。
ひっかかるところはあるけど、まあ、とりあえず今日はそう結論づけておきます。

以下追記:

なんとなく「笑ってやる必要なんてない」で書いた
笑いの根拠をいかに獲得するかと言う問題意識がすっぽり抜けているような。

あと、例えば、笑いのかわりに「悲しみ」「怒り」を使うのとは
どう違うか、と言う観点があった方がいいかなとか。
この場合笑いを使うメリットは、笑いが基本的には
作者の疑いから発生しているという点にあります。

つまり、「悲しみ」を使ってしまうと、そこで思考が止まってしまうのに対して、
笑いを使う場合は疑いを植え付けることができるわけです。
「怒り」「悲しみ」を使うことの効果的さと危険さは拉致報道を見るだけでも
よく分かると思います。

笑いにはステレオタイプを植え付けてしまう働きがあるかも、
と前回書いた気がしますが、それは上記の感情に比べればましかな。
笑いに対しては笑いで対抗することができるけど、
他人の「悲しみ」に対して笑いで対抗するのはエネルギーがいります。

Posted by kent at 10:16

2003年3月 5日

笑ってやる必要なんてない

立場上、お笑い、という考え方について非常に好意的かつ、
甘い見方をしているところはあって、
お笑いと言う考え方が持つ相対化力や多様性、バランスなどを
過信している部分はあると思う。

これが行き過ぎるとよくないことは考えなくても分かるわけで、
相対化が行き過ぎるならば、絶対的な価値が存在しづらくなり、
何を笑ったらいいのかの基準すら曖昧になり、
かえってお笑いにとって不都合な事態が生じかねません。

とくに最近のweblogやらニュースサイトの乱立などに思うものがあり、
こう言うサイトはどちらかと言えば「ツッコミ」であり、
多くの目で世の中のさまざまな「ボケ」を発掘し、笑う、
という側面を多く含んでいるように思います。

その過程で、特に面白くないものを無理矢理面白くしたり、
オモシロということであえて取り上げるようなニュース・話題が多く出てきますが、
この傾向は必ずしもよくないのではないかと。

どんな話題でもツッコミ次第で面白くもなりつまらなくもなるのですが、
必ずしも笑ってやる必要なんかない話題、というのも少なからず存在します。
笑ってやってしまうことで価値は相対化されますが、
それによって逆に価値を与えてしまうようなこともあるわけで。

特に笑いにしてしまうことで、そこで思考が止まってしまいがちなのが問題です。
それは笑いの仕方にもよるのですが、特に難しい関心を持ってもらいにくいような
話題を笑いでくるんでみせる(ボウリング・フォー・コロンバインとか)
というのは非常に効果的なのですが、笑いにはまた例のAだ、
ということでカテゴライズするような働きもその一方であり、
それこそが危険なのです。

今、北朝鮮の話題がまさにAです。もはやどんな話題が来ても、
北朝鮮に関しては「またあのアフロが:-)」で済ますことができるのです。
それによって細かな動きを見逃してしまうかもしれない気がしています。

なにもこれはweb上に限ったことではないのですが、
マスメディアに対するwebの優位性ばかりが注目されがちなので、
あえて書いておきたいと思ったことです。
笑ってやる必要なんてないのです。

Posted by kent at 06:48

2003年2月21日

逆に面白い

97年はじめのめちゃイケを見てるんだけど、全然面白くない。
何か今のものと比べて一番違うのは、「逆に面白い」みたいな手法を
ほとんど使ってない感じ、かなあ。
まあ、生spだからっていうのはあるけど。

一部その兆しみたいなものは見られるんだけど、
今みたいにそんなに自覚的に使えてないと言うか、
少なくとも出演者がうまく捌けてない。
というか、矢部が捌けてない。

これはなんか、めちゃイケに限らず最近のテレビのほとんどが
「逆に面白い」と言うのをよく使う気がする。
つまりなんか、つまらなかったり、シュールだったりするのを、
あえて使って、それに対するリアクションで笑う、みたいな手法。
さらに言うと、テレビの中のお約束みたいなのを逆手に取って、
それをわざとらしく使うような手法とか。

これは単純に見ている人が慣れちゃってそう簡単には笑えなくなっているというのと、
作る側がそういうものを笑えなくなっている、と言うのの2側面があると思う。
実際なんか有名な放送作家の番組ほどそういう傾向は強いような。

それと似たようなことで、ボケツッコミ型のお笑いで、
ツッコミが暴走し過ぎるてボケがつっこむとか、
ベタなノリツッコミで笑いを取ったりとか、
そういうのが最近多いけど、それも同じことだろうな。

まあ、それはいいのか悪いのかは別問題で。
お笑い原理主義ってなかんじで批判するのもどうかと思うけど、
ただ、やっぱり舞台のお笑いが一番だ、とか通ぶる人が出てきているのと、
これは全く同じ現象の表裏のような感じがします。

Posted by kent at 03:22

2003年2月13日

何が笑われてきたか。

まだ終わってないのですが、卒論はお笑いの評価ってことで書いたのでした。
これを知り合いに見せたところ、
「お笑いが必ず相手を必要とするってことが書きたかったんでしょ」
というようなことを言われ、なるほど、そんな意図はなかったものの、
それはたしかにそういう面はあるのです。
ある意味当然なのですが。

で、まだ卒論が完成していないと言いましたが、具体的に言うと、
完成していないのはモデルの適用例に当たる部分で、
タモリさんなどを例に挙げる予定でしたが、タモリ委などをやっている都合上、
適当なことは書けないというプレッシャーや、いまいち切り口がわからない、
といった理由、さらになくても論旨には影響しないので、
時間的な都合で後回しにしたわけです。

ほかの方からもその章が一番大事なのではないかという指摘があり、
困っておった次第ですが、切り口としては、「お笑いは必ず相手がいる」
っていう部分に着目するのがいいのかなあとか思っておる次第です。
つまり、鏡像の関係で何が笑われているかという部分です。

ほかに卒論に書けなかった(時間的ないし論が詰められなかった、など)
ものとしてはお笑いと組織の関係があります。
一般的には多くの人が関わるほどつまらなくなる、ということは
言えますし、言われてきているようです。
しかしながら、それが単純に「笑いが丸くなる」といったことに起因するのか。
組織のデザインに起因するのか、うまく組織が作れればいいのか、
その辺はあまり検討されてないような感じがします。

これは別にお笑いに関係なくクリエイチブを目的とした組織に
一般なことなので、ちょっと考えたいところですが、
4月からまさにそういった目的でつくられた会社という組織体に属するわけで、
その辺の感じを考えたいと思う一方、この場合の組織体は、
組織として何かをつくるわけで個人は歯車であるみたいなクリシェを考えると
悩ましい、というのも挙げておきたい点です。

Posted by kent at 06:56

2002年12月15日

オンエアバトル

オンエアバトルもいくらなんでもレベルが下がりすぎだという気がするよ。
あんなつまんない中で落ちるんだから、今週のおぎやはぎはよっぽどつまんなかったのか。
もしくは観客に見る目がなかったのか。笑い自体あんまり無かったから、
両方だろうな。

よく漫才などで、後半にかけて一つのボケを起点に、
波状的にボケを重ねる手法っていうのはよくやるんだけど、
これが出来るか出来ないかでその漫才の善し悪しはだいぶ変わってくる。

つまり、波状的に、って言うことは、ガンガン笑いをこちらに押しつけてくる、
ってことだけど、最初のとっかかりで失敗してしまったら、
もうそこからの波状は全部失敗になってしまう。
そういう危険性をわかって使わないとならない諸刃の剣。

すくなくとも今日の人たちは全員失敗してたみたいです。
なんか、今の時代に漫才って、パロディとしての意味しかないように思う。
漫才のお約束、みたいなのをうまく相対化して笑いにしてるコンビは、
わりとうまくいっているような、そんな感じがします。

Posted by kent at 04:34

2002年11月24日

タイミング

あとまあ、言うまでもないんだけど、
「ここで笑ってくださいよ!」って言うタイミングがわかりやすい方が
笑いやすいって言うのは言うまでもなくある。

ただ、それをしくじると非常に押しつけがましくなるわけで、
そういうポイントに持っていけるだけのボケをつくるのは難しかったりする。
ので、結構逃げる場合が多い。

それでもまあ、くだらないポイントでそれをやるよりかは、
いいとは思うんですが。

Posted by kent at 00:53

酢イカ

Suica.っていうネタをやったんですけど、
これは考えオチになってて、っていうか、
よっちゃんいか→酢イカ→Suicaっていうのが思い浮かばないと笑えないんだけど、
結構ウケてた。

ちょっとわかったのは、
これまでそういう風に考えさせないで、
基本的に「出オチ」でやってツッコミを付けないことによって
押しつけがましさを減らす方向でやってみたけど、
ある程度考えさせるプロセスがあった方が笑いが大きい、
っていうか「あー!」っていうのも入ってくるから、
音量的に笑いが大きくなるのかなと。

Posted by kent at 00:12

2002年11月 5日

タモリさん

やる前に気付いておくべきだったけど、
お笑い芸人をズレの深さで勝負するタイプと、
タイミングの良さで勝負するタイプに分けたら、
タモリさんは間違いなく後者のトップに位置するわけで、
コンテクストから切り離しても面白いように編集するのはなかなか難しいかと。

例えば10/22(火)に「吹き矢って言うからには息使うんですか?」
って言ってるんだけど、これは、自分で「くだらない質問するな!」
ってふっておいて、のセリフがあってのもので、
しかもそのセリフが出る前にくだらない質問されて吹き矢名人がいらだってる、
っていう状況があってはじめて「くだらない質問するな!」も出るわけで、
そこから入れようと思うと相当長くなるわけで、使いづらかったりする。

でもそういうのを外して一瞬一瞬切り取っても面白いのだけで
構成するのもまたなんか違う気がする。悩ましいですな。
早稲田のタモリ研究会は何をプレゼンしたんだろう。

Posted by kent at 03:59

2002年11月 3日

ダイノジ

すごいなー、ダイノジ。
ダイノジのネタにロボットの小西ネタ、
って言うのがあって、テレビで二度三度やってるから、
今日もまたあの小西ネタか、と思って見てて、
たしかに基本的な流れは同じなんだけど、枝葉のネタを変えてて、
ちゃんと気を使ってるなあ、とか思ってみてたら、
最終的には全く違うネタだった。

多分芸人にとって、テレビでネタをやるっていうのは諸刃の剣で、
そんなにたくさんネタは作れないから、テレビでやったネタを舞台でやっても
ああ、またアレか、みたいなことになる。逆もしかり。

その辺の整理をちゃんと出来てる芸人っていうのは
あんまりいないなあと思ってたんだけど、この人達はうまいことやったね。
エレキコミックって言う人たちもわりとうまくて、
こっちはアドリブの多さでカバーしてたけど、
ダイノジのはネタの構造から両対応になってるのがすごいなあと。

Posted by kent at 00:10

2002年11月 1日

説明

人が笑ってるところで自分が笑ってない場合、
それが単につまらないからだろうと片づけていたのだけど、
今日はっきりわかったのは、

ある面白さがあるモノがあるとして、
そのモノを見せられてそのモノの面白さを解説される、
という行為、これが多分、自分が嫌な笑いの取り方ような気がする。
そういう場合は、説明はなくていい。

説明するとしたら、そのモノから読みとれないことを
説明して、そのモノに新しい見方を付与するべきで、
それで初めてああ、笑おう、と言う気になる。

簡単にいえば、AというところをBとボケたとき、
BじゃなくてAだろ、というツッコミはダメで、
「Cかいな。」っていうようなツッコミが望ましい。という感じ。

良い例じゃないけど、これ
吸いがらじゃなくて吹いがらになってるよ、
っていうのは見ればわかるわけで、そこをくどくど言うのはどうかと思う。

そう考えるとこれは失敗か。
特に付け加えることがないならこんなんでいいんだと思う。

Posted by kent at 02:14

2002年10月18日

世界2

以前書いた世界一面白いジョークの話。
本には「世界一つまらないジョーク」も乗っていて、
こんな感じ。
「何であの鶏は道路を渡ったんだ?」
「反対側に行くためさ」
うーん、納得。

集計の第一次時点での優勝作も載ってて、こんな感じ
「シャーロックホームズとワトソンがキャンプをしていた。
星の下で彼らはテントを張って眠りについた。
そして深夜、ホームズは目をさまし、ワトソンを起こして言った。
「ワトソン君、空を見たまえ、何が見えるかね。」

ワトソン「何百万もの星が見えます」
ホームズ「それから何が推理できるかね?」
ワトソン「100万の星があり、そのうちのいくつかは惑星をもつとするならば、
そのいくつかは地球みたいな星があり、ということは、生命がいる、と言うことも言えるんじゃないでしょうか」
ホームズ「アホかねキミは。われわれのテントが誰かに盗まれたってことだ」

これも、うーんだけど「世界一面白いジョーク」よりマシな気がする。
だとすれば多くの人がレビューするほどつまらなくなるっていうのは言えそうです。

Posted by kent at 04:12

2002年10月14日

日本人はジョークベタか。

日本人はジョーク下手っていうのは本当か、っていうの誰か調べてくんないかな。
"子"のつく名前の女の子は頭がいい」みたいな感じで新書でひとつ。

これって社会学的にも心理学的にもいろいろ調べようがあると思うのだけど。
小熊研とか熊坂研に行ってたらやってたかもねえ。
適当に考えるだけでも、「日本人は農耕民族だから」とか「封建社会が長かったから」とか、
「日本語の語彙が多いから」とか「単一民族だから」とか「島国だから」とか、
ありきたりな結論がいくらでも導き出せそうだ。

「日本には他国にはないお笑い文化があり、「ジョーク下手」はアメリカの押しつけ史観」
って言う人もいそうです。

わたしは多分、ジョークを楽しむ習慣と言う習慣は全く違ってて、
前者はあるかもしれないけど、後者は多分、言う必要がないから無いんだと思います。
で、これからはどんどん言ってゆくべき、とか書いたらそれっぽい論文。
まあ、そういう論文を書くつもりじゃないから困ってるわけですが。

Posted by kent at 21:08

2002年10月 7日

世界一

世界で最も面白いジョークの話
全世界から多数決で投票している以上誰にとっても一番面白いというよりかは、
誰でもこの笑いの概念を理解(笑えなくても、こういう点で面白いんだろうなあと)できる、
と言う方がもっともらしい。

それは単に本のPR効果をねらったトピックで、
この研究の主眼は地域差の方にあるらしく、
イギリスやオーストラリアでは言葉遊びが、
アメリカやカナダでは優越感が、
フランスやベルギーでは現実離れした(surrealな)ものが
好まれ、日本には「ジョークの習慣自体を見出すことが非常に難しかった」
と言う結果の方が興味深いです。

「ジョーク」の定義は未だにいろいろあるので、それによって変わるものの、
短い落語みたいなのをジョークとするならば、そして、
ジョークを使用するのが一般人であるのが前提ならば、
日本にジョークの習慣が無いというのは納得。

Posted by kent at 08:11

2002年9月 6日

座付き作家

笑いの巨人、やっぱりあんま面白くなかったけど、
それでも先週より成り立ってたのはひとえに清水ミチコとロバートの秋山のおかげですね。
ロバートの秋山は本当に演技がうまいと思う。ロバート自体のコントを見たことはないけど、
ネタ自体じゃなくて演技で笑いをとれるのはあんまりいないですよね。

なんか、その意味でネタを書く人とネタを演じる人がもう少し別れてても良いと思うんですけどね。
自分でネタを書かないグループはダメだ的な見方はちょっと変だというか、
また昔みたいに座付き作家とかが出だす局面に来てるのかなと思います。
コント55号みたいなかんじで。

まあ、たけし辺りが座付き作家を否定して出てきた、
って言うのが今のお笑い与える影響は多いでしょうな。

Posted by kent at 02:34

2002年8月25日

スマイリ

スマイリーキクチって言う芸人はわりと好きなんですよ。
っていうかわりとうまい芸人だなあ、ということを思う。

ほかの芸人とどこが違うかって言うと、ちゃんと客のリアクションを見てますよね。
それが違いますよ。ほかの芸人は淡々と用意したネタを用意したとおりにやるだけで、
だったらビデオにとって流したらよかろうとか思う。かといってビデオに撮ったら見るに耐えないとも思う。
そこに芸人が居るからかろうじて笑える、と言う類。

あと、ネタの選び方も、ほかの芸人は単に嘘、と言うか、
現実っぽい嘘をでっち上げてその中で完結しちゃってるのに対して、
ちゃんと開けてるというか、ちゃんと現実の方向を向いてる感じがします。
どうせ嘘ならもっと嘘の方向に行くべきであって、なんか、中途半端に間違えてるだけの
ボケみたいなの、漫才のパロディにしか見えなくて、もう長いこと笑えないんですよ。

Posted by kent at 03:07

2000年10月22日

ナイナイサイズと普通

「ナイナイサイズ」と言う番組がちょっと面白い。私はこれまで、ナインティナインは、TVでは、スタッフの力に助けられてきたような感じで見ていて、例えば、「めちゃイケ」とかはすごく、スタッフが優秀だなあ、と思っていたのですが、この番組は、わりとそのまま、と言うか、彼らの力量だけで勝負するような感じで、それもまた、わりと面白かったのです。

あの人達の面白さって言うのは、ある意味「普通っぽさ」だと思うのですが、この番組はその辺がわりと良く出ていると思った。例えば、先週の放送だと、矢部が恋人と二人で泊まる高級旅館を探しに行く、と言うもので、「高級」の時点で、「普通」ではないのだけど、車の中でサザンをかけたりする矢部とか、宿が、ニセの雨や雷を演出する、というのをみて、「やっすい雷っすねえ〜」と言うつっこみをする辺りなど。普通の人なら宿が、サービスの一環として、雨を人工的に降らしたり、などというのを聞いて、どこかしら違和感を覚えると思うのですが、矢部はそこにつっこむことを忘れなかったわけです。「高級」の時点で「普通」ではないけれど、この辺の態度は「普通っぽい」わけです。

お笑いに限らず、表現活動は、「普通」の位置を見極めることが重要だと思います。もちろん、すごく変わった人がいて、その人はその行為を全くおかしいと思っていないのだけど、誰か、そのおかしさに着目した人がいて、その人がプロデュースする、というあり方はあるけども、自分で完結しようとすると、そうはいきません。ユーモアは、つねに一般的に見てこうだ、というものとその事象との間のずれを笑いにするわけですが、もちろん、「一般的」の位置がわからなければ、できないことです。だから、私たちが「笑える」というのは、「私」という「普通」の基準があって、その基準から、それがずれている、と判断できたから笑えるわけです。

だから、たいていの場合の笑いは、私たちが、「笑いのツボ」と呼ぶような価値観を共有しているからこそ起こりやすいものなのです。そして、その「笑いのツボ」は記憶に違いないのです。例えば、私が「変なおじさん」の真似をしたのを笑えるのは、「変なおじさん」を知っているからこそだからです。「たいていの場合の笑い」と書いたのは、そうじゃない類の笑いもあるからです。身振りのおかしさだったり、身体的おかしさだったり。

私は、ある意味、笑いの力を信じている、と言っても良いでしょう。笑う、と言う行為は全てを相対化します。既存の価値観であったり、人の生き死にや、国家という枠組みから、卑近な事象まで。現在の世界は、ほとんどの価値が相対化されて、絶対的なものなど何もない、と言う世界ですが、それが本来であって、絶対的なものは自分の意識の存在だけなのです。ユーモアを言う時に一番難しいのは、自分自身を相対化することで、これが出来てしまえば、何の苦労も知ったこっちゃない、と言った類のものですが、それも必要なことです。

話が飛んでしまいましたけれども、ナインティナインは対象層全体の平均的な「普通」の位置をすごくよくわかっていて、それが故に成功したのであり、それが分からなくなったときが、芸人生命の終わりだと言うことです。「対象層全体」と書きましたけど、昔と違って、今は、層がすごく細分化されていて、よく、「昔の芸人と比べて今の芸人は...」などと言いますが、昔と比べると、全体に対して笑いをとる、というのは非常に難しくなっていると言えるでしょう。

Posted by kent at 03:49